島の記憶

7月12日。

あの日から20年を迎えました。

1993年7月12日午後10時17分発生。

死者、行方不明者230人を出した北海道南西沖地震。

その日、札幌の報道部も大きく揺れ、

「これはただ事ではない!」、即、スクランブル態勢に。

夕方ニュースのキャスターだった私も含めて総出で電話に飛びつきました。

全道212市町村(当時)の被害状況を確認するためです。

メールもまだ今ほど普及しておらず、まずは電話確認が鉄則でした。

「道南方面の被害がひどいらしい・・・」

少しずつおぼろげに各地の状況が入ってくる中で、

「だめだ!つながらない・・・なんでだ、奥尻だけがつながらない」

うめく記者の声が背中越しに聞こえてきました。

その頃、

奥尻島は震度6の烈震と大津波に襲われ、

美しい海とウニが自慢の島は人も家も根こそぎ津波に飲み込まれ、

その後発生した震災火災によって焼きつくされてしまいました。

198人の命が失われた最大の被災地、

発生当時、電話がつながるわけはなかったのです。

奥尻が大変だ。

夜明けとともに取材ヘリが現地に向かい、

私も乗り込みたかったのですが、当時は大きなお腹を抱えた状態。

札幌で後方支援に専念。

報道記者とともに、泊まり勤務のスーツ姿のままヘリに乗り込んだ

先輩アナウンサーは3日間、着の身着のままでの取材。

戻ってきた時、そのスーツから立ち上った強烈な「火災の匂い」は

今も忘れられません。

焦げるとか焼けるとか、そんな生易しい表現では追いつかない、

何もかもが消滅してしまった「匂い」。

鼻腔に残る記憶は消えません。

離島、夜間という悪条件が重なり、救援も遅れ、

食糧、物資もなかなか届かない。

現地取材班もわずかなサキイカなどの乾き物でしのぎながら

カメラを回し続けていました。

ようやく、避難所に小さなおにぎりが到着した。

その様子を取材しようと、島のおばあさんにマイクを向けた先輩アナに

「あんたがた、なんも食べてないんでしょ、これ、食べれ」

そのおにぎりを差し出したというのです。

「とんでもない、僕たちは大丈夫です、食べて下さい」

そう答えるのが精いっぱいだったそうです。

島が沈む。

島が消滅する。

そんな極限の恐怖と絶望を目の当たりにしながら、

わずかな食糧を自分よりもずっと若い人に分け与えようとする心。

祖父母を背負って高台に逃げて命が助かった。

お年寄りの家に戻って津波に呑みこまれた。

震災と津波の体験を語り継ぐ試みが今も続けられていますが、

極限の状況でも人を思いやる島の心も、

メディアの人間のはしくれとして

語り継いでいかなくてはいけないと、思いました。

全国から寄せられた義援金、国や道の復興事業費を速やかに分配し、

奥尻島は震災から5年という奇跡的なスピードで完全復興を宣言しました。

困った人をほっとけない島の心も原動力のひとつでしょう。

立派な防潮堤もでき、壊滅的な被害を受けた青苗地区は地盤がかさ上げされ、

新しい住宅が立ち並びます。

その一方で島の高齢化が進み、先細る財政状況から

「入島税」の導入も検討されています。

地震と津波と火災に蹂躙された小さな島が必死の思いで再生し、

今また、多くの離島と同じように高齢化、過疎化に直面しています。

沖縄でいくつかの離島を旅しましたが、

どの島も同じ悩みを抱え、どの島も必死で知恵を絞っていました。

神の島と呼ばれる久高島は

その特別な歴史と文化と自然を財産に、

体験学習や海村留学生受け入れなどで、島の活性化を試みています。

旅したくなる魅力を発信し、

旅したら住みたくなる魅力をさらに作り出す努力を

日本中の小さな島々が続けています。

夏。

島へ旅しませんか。

奥尻では獲れ獲れのウニ、アワビ、

何よりあったかい島の心が待っています。

あなたが気になる小さな島の魅力と現実に触れる旅。

大きな刺激をくれるはずです。

☆明日7月13日(土)のAIR-G’「野宮的コフレ」のテーマは

「いちゃりばちょーでーの島~沖縄夏バカンス」。

久高島のお話もする予定です。

お楽しみに。

(写真は)

真っ白い砂浜が神々しい。

神の島「久高島」。

特別な旅になりました。

詳しくは明日のO.A&当ブログで♪