あしらいの美

気がつかないような細部にまで

お客をもてなす心がどこまでもさりげなく息づいていました。

その美しい平屋は京都そのもの。

「京都迎賓館」に初めてテレビカメラが入った。

録画していたNHKのドキュメンタリーをようやく昨夜観ました。

案内役の富司純子と寺島しのぶ母娘と一緒に

「はぁ~」「ほぉ~」「へぇ~」感嘆するばかり。

京都の歴史と技と意地とプライドすべてが、

「お客をもてなす」その一点に集中されています。

国籍、文化、宗教の違いなど軽々と越えて人々を魅了する空間が

緑の京都御所のお隣にひっそりと佇んでいました。

そこは、絶対に、「予約」のとれない、賓客のためのお宿。

ホストは、京都。

「国賓をもてなすのに何故フランス料理なんだ」。

「何故バロック建築なんだ」。

西洋建築の赤坂迎賓館しかなかった頃、

長年京都の匠や職人さんたちは忸怩たる思いを抱え、

「京都に迎賓館を」と訴え続け、それがようやく完成したのが2005年でした。

四季の花々が咲き乱れる壁面はよ~く見ると一目一目丹念に織られた織物。

主食堂の12mの黒漆の座卓は鏡のように濡れて輝き、一点の曇りもありません。

天井を仰げばこれまた12mに及ぶ吉野杉の見事な一枚板が渡されています。

樹齢300年のこの木一本を探し当てるために、木の匠が山を何日間も歩きまわり、

棟梁がようやくうなづいた一本を1年かけて乾燥させますが、

この木が本当に使えるかどうか、節のない真っ直ぐな柾目が現れるかどうか、

製材してみるまで誰もわからないのです。

一本数千万円に及ぶ途方もない匠たちの「賭け」。

はたして現れた杉の板は・・・完璧な一枚板。

どこまでも真っ直ぐな美しい木の目が伸びていました。

でも天井板は食事をする賓客のはるか頭の上。

美しい京料理に夢中の彼らがよほど見上げない限り、目に入りません。

「錐金」(きりかね)と呼ばれる繊細な金細工を施した欄間も、

開け放たれた障子の桟、その断面の模様が揃えられていることも、

そこここに置かれた一輪挿しの和花はその朝、京都の里山で摘まれたことも、

当代の桜守の手によるお庭には桜の木が一本しかないわけも、

京都の人々は声高に語って聞かせることはありません。

取材当日滞在したウガンダの賓客は

京都迎賓館で過ごした時間に対して

「すべてが適切だった」と賛辞を送っていました。

「すべてが適切」。

決して出過ぎない、やり過ぎない、主張し過ぎないおもてなし。

それは、お客を迎える前日、台風がもたらす大雨に打たれながら

玉砂利の間の枯れた松葉をピンセットで一本一本取り除く心配りであり、

見事なしだれ桜すら庭の「あしらい」として、そっと配置するバランス感覚、

完璧に準備をして、一歩引く京都の美意識から生まれる宝物。

飾り立てて、盛り付けて、これでどうだと声高に押しつけることはありません。

ただひっそりと、さりげなく、

小さく細工された紅葉を模した人参や、銀杏型のお芋や、

お碗を開けた瞬間に鼻をくすぐる柚子や松茸の香りで

京の秋の到来をそっと告げる。

ようこそ、おこしやす。

耳元でそっと囁かれる心地よさ。

ああ、生まれ変わったら某国の「賓客」になって

京都迎賓館に「予約」を入れたい(笑)。

どんなカードを持ってしても

絶対に「予約」のとれないお宿が

京都にはあるという。

現代の神話。

(写真は)

沖縄一美味しいと評判のジーマミー豆腐。

市場通りの奥の奥にある「商六」自慢の味。

早くに行けば「予約」しなくてもできたてを買えます。

落花生の香りが鼻に抜ける。

南国のおもてなしのスタートだ。