おとひめと白百合
そうだったんだ。
植物の花の「ひめゆり」とは関係なかったんだ。
知ってたもりでも、本当はわかっていなかったことって、いっぱいあるんだ。
沖縄本島南部、糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」。
第一展示室の入り口に書かれた説明文に私の足は止まりました。
20年前に訪れて以降、2度目の来館ですが、あの時は何を見ていたのか。
今回はじっくりと時間をかけて回ろうと思います。
初秋の沖縄旅4日目は、絶好のドライブ日和の中、
空と海のブルーが融け合う美しい南部の海が迎えてくれましたが、
沖縄本島南部は太平洋戦争激戦の地。
この美しいブルーの海一面が
米軍の艦隊で黒々と埋め尽くされた時代があったのです。
1945年3月23日に米軍の沖縄上陸作戦が開始、3月26日慶良間諸島に侵攻、
4月1日は本島中部西岸に上陸、米軍の南下に伴い、日本軍の死傷者は激増、
本土上陸を遅らせるための持久作戦、根こそぎ動員が強行されます。
南風原の陸軍病院に動員された教師、生徒240人のうち、136人、
在地部隊その他で91人が激しい砲撃の中、突然の解散命令によって、逃げ惑い、
砲弾やガス弾、そして自らの手榴弾によって命を落としました。
いわゆる「ひめゆり部隊」の悲劇です。
南部の美しい海に感動しただけでは帰れません。
素通りは、できません。
鎮魂と平和の大切さを次世代へ語り継ぐため、
ガス弾攻撃によって多くの犠牲者が出た伊原第三外科壕が
当時の姿を残したまま、「ひめゆりの塔」として保存され、
その隣に1989年「ひめゆり平和祈念資料館」が設立されました。
20年前と同じように「ひめゆりの塔」の前には供花を売る白いテントが。
南国の鮮やかな花の色が胸に迫ります。
一束携えて、塔に歩み寄り、献花台にお花を供えます。
少し身を乗り出すと、地中深く、ぽっかりと口を開けた壕が見えました。
「陸軍病院」という名の天然の壕。
どれほど暑く、どれほど息苦しく、
どれほど絶望的な死の匂いに満ちていたことか。
69年前、傷ついた傷病兵たちの呻きの中、
必死で看護にあたる少女たちの姿がこの壕にあったのです。
15歳から19歳の乙女たちの青春が断ち切られた地。
ただ、祈りました。
真っ青な空から初秋の午後の日差しが降り注ぐなか、資料館へ。
何人かの見学者はいるものの、
ひっそりと静かな館内入り口に設立の経緯が書かれていました。
「『ひめゆり』は植物の花のひめゆりとは関係ありません」。
戦時動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は
「ひめゆり」の愛称で親しまれていた併置校で、
多くの教師が兼任、施設も供用された姉妹校のような間柄。
それぞれの交友会誌の名前「おとひめ」「白百合」から生まれた愛称でした。
「ひめゆり」とひらがなを使うようになったのも戦後だそうです。
そうだったんだ。ひめゆりの花は直接は関係なかったんだ。知らなかった。
知らなかったことって、もっと、きっと、たくさんあるのだろう。
資料館は第1展示室から第6展示室まで
時系列に沿ったテーマ別に巡るようになっていますが、
「ひめゆりの青春」と名付けられた第1展示室で
早くも「知らなかった」ひめゆりのことを目の当たりにします。
「ひめゆり=悲劇」と直接的に結び付けるばかりだったイメージは
単純な先入観の先走りだったと思い知らされます。
当時の学園生活を偲ばせる白黒写真や記録の数々。
彼女たちは最初から悲劇の少女ではなかった。
1944年沖縄に軍隊が移駐・駐屯するのにともない、学園の戦争一色になるなか、
夢見る年頃には、歌と笑いがあったのです。
紺色の制服に身を包み、お下げ髪で微笑む少女たち。
バスケットボールや弓道に励んだり、シューベルトの「野ばら」を合唱したり。
寮では部屋ごとに「美人投票」が行われ、「美人」には必ず新入生が選ばれ、
選ばれた者はお菓子を奢らなければならないという愉快なイタズラも。
娯楽の少ない中でも読書を楽しみ、軍国主義の中にあっても、
戦記物よりも夏目漱石や島崎藤村、高村光太郎などが良く読まれ、
パール・バックの「大地」や
マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」が人気、
好ましくないという先生もいた石坂洋二郎の「若い人」は
生徒支持率は高かったとか。
展示室の資料は彼女たちの青春を雄弁に物語っていました。
「美人投票」にきゃーきゃー盛り上がり、
ちょっと大人っぽい小説をこっそりまわし読みする10代の少女たち。
ひめゆりの学園生活はハリー・ポッターの寮生活みたいな楽しさで、
それはまさに人生の夏、青春そのもの、でありました。
ある者は教師を目指し、
ある者は教養豊かな女性として社会で活躍することを目標に、
明日を信じて、未来を夢見ていました。高校時代の自分とどこが違うのか。
10代に読んだ小説も、私のそれと、何にも変わっていない。
ただ、生きた時代が違っていた。
彼女たちの日常に戦争があり、私はなかった。
「お~!すっげぇ~!」
「これ、マジ?本物?」
修学旅行の一団でしょう、賑やかな若い声が後ろから押し寄せてきました。
「ひめゆりの青春」と自分を重ねていた沈黙の時間がぱっと途切れます。
ここは第2展示室「ひめゆりの戦場」。
動員された240名が配置された
南風原の沖縄陸軍病院壕がジオラマで再現されています。
40近くの横穴の壕に粗末な二段ベッドがあるだけの「病院」。
平成の10代たちの賑やかな声が通り過ぎるジオラマの前、
一人の老婦人がそのなかの一人の少年に熱心に語りかけています。
「だからね、戦争は、決していけないの・・・」
喧騒の中で細い声が消えそうになりながら、
少年の手を握らんばかりに懸命に語りかけるその人こそ、
ひめゆりの青春を過ごし、戦場を生き抜き、
戦後、痛恨と自責の念に苦しみながらも、次世代へ語り継ぐ一心で
この場に立ち続ける証言者のお一人でありました。
1945年3月。あと幾日で卒業だった師範本科2年、
19歳の少女だったその人が語ったお話は明日詳しく。
(写真は)
「ひめゆりの塔」の献花台前にて。
塔の真下には伊原第三外科壕の跡がそのままに。
沖縄特有の天然の洞窟「ガマ」です。
解散命令直後の6月19日早朝、米軍のガス弾攻撃によって
ひめゆり学徒51名のうち生き残ったのはわずか8名、
さらにそのうち3名が壕を出たあと亡くなりました。
供えられた南国の花の香りが天国に届きますよう。

