きょうも来たよ

雨の土曜日。

ひと雨ごとに秋はその色を濃くしていきます。

う~ん・・・そろそろクローゼットも衣替えですね~。

ふわふわニットが恋しくなる季節がまもなくやってきます。

一方、台風18号が沖縄大東島に接近中、

本島も風が強くなっているのでしょうか。

糸満市のひめゆりの塔の献花台の花々も雨に濡れているのでしょうか。

初秋の沖縄旅4日目は本島南部へ。

美しい百名ビーチや海カフェで景色を堪能、奥武島を経由して、

午後は「ひめゆりの塔」を訪れました。

20年前に訪れて以来、2度目となります。

沖縄戦で看護要員として動員され亡くなった

「ひめゆり学徒」を鎮魂する慰霊碑に花を捧げた後、

併設されている「ひめゆり平和祈念資料館」に向かいます。

第1展示室「ひめゆりの青春」に展示された写真や資料は。

当時15歳から19歳だった彼女たちの学園生活を物語っていました。

戦争さえなければ、未来へ向かって羽ばたくはずだったのに。

続く第2展示室、動員された南風原の陸軍病院壕のジオラマの前で

修学旅行の少年に語りかける一人の老婦人の姿が。

この方こそ、若い世代に戦争の実態を語り継ぐために

資料館に立ち続ける証言員、つまり生存者のお一人、

沖縄師範学校女子部師範本科2年、当時19歳だった大見祥子さんでした。

「だからね、戦争だけは、絶対いけないの・・・」。

少年の手をとらんばかりに語りかける小柄な大見さんは、

まもなく90歳になる高齢のはずですが、

背筋はぴしっと伸び、銀白色のおぐしも綺麗に整えられ、凛としたご婦人です。

「良ければ、お話しましょうか」。

少年が去った後、私の方に静かに歩み寄って下さり、

お話を伺うことができました。

大見さんの手記は資料館の展示にも残されています。

アダン林の中で瀕死の戦友から頼まれて兵士が引き金を引いた直後た遭遇、

「可哀そうだから、殺した」、兵士の言葉が記されていました。

「鉄の暴風」と表現される凄まじい米軍の砲爆撃が続く中、

追い詰められた日本軍は6月18日、学徒たちに対して「解散命令」を下します。

「これまで良く頑張った、今日からは自らの判断で行動するように」の一言で

彼女たちは突然、敵の目の前に放り出されることになったのです。

「私はね、その命令のことなんか、何にも知らなかったの」。

たまたま水を汲みに行くために、大見さんが壕を出ていた間の出来事でした。

一緒に水汲みにいった友達と壕の近くに戻ると、

友達も先生の姿も見えない、砲弾は飛んでくる、何が何だかわからないなか

亜熱帯のジャングルを逃げ惑う10代の少女たち。

「もう駄目だ、辱めを受けないよう自決しよう」と思うものの、

手榴弾の使い方がよくわからない。たまたま遭遇した兵士に

「兵隊さん、手榴弾の使い方教えて下さい」と懇願しているその瞬間、

隠れていた場所の向こうから聞き覚えのある声が聞えてきたそうです。

「出てきなさい!大丈夫だから、出てきなさい!」。

「仲宗根先生ですよ、

仲宗根先生の声が聞えたから、私は、死ななかったんです」。

米軍の捕虜となっていた先生が

隠れている生徒に必死に呼びかけた声だったのです。

「なんたって、先生のおっしゃることですからね、

先生がおっしゃるのだから、ああ、死んではいけないんだって、

私たち、外に出ていったんです」。

学園生活で育まれた教師と生徒の信頼の絆が若い命を救ったのでした。

戦後、自らも教師となり、長く教壇に立ってきたという大見さん。

なるほど、凛とした美しい姿勢を保っておられるのも納得です。

しかし、ひめゆりの証言員として資料館に立つことに対しては

他の証言員同様、相当の心の葛藤があったそうです。

ひめゆり学徒の話は小説や映画にもなり、全国的に知られるようになる一方で、

生存者のほとんどは戦後長くその体験を語ることはありませんでした。

「自分だけが生き残ってしまった」。

亡くなった学友やご遺族への痛恨の思いが自責の念となり、

苦しみ続けていたのです。

そうした思いを抱いていた生存者を含めたひめゆり同窓生たちが

「戦争の実態を語り継ぎ、平和の尊さを訴える資料館をつくろう」と

建設に向けて手弁当で奔走し、1989年に開館したのがこの資料館でした。

証言員となって来館者に体験を語るようになってからも

大見さんは学友が亡くなった場面になると、

絶句してしまうことがありました。

その時、同じ証言員の一人がこう話してくれたそうです。

「私はね、資料館に来たら、まず最初に、第4展示室に行くの。

みんなの写真があるでしょ。きょうも来たよって挨拶するの。

そうしたら、力がわいてくるの」。

「鎮魂」。

第4展示室には沖縄戦で亡くなった227名の写真が展示されています。

名前、年齢、学年、出身地、

そして「テニスが得意だった」「静かで優しい人柄だった」など、

227人のひととなりが書かれています。

亡くなったクラスメートに「きょうも来たよ」と挨拶して心を奮い立たせ、

全国からやってくる来館者の前に立ち、凄絶な体験を語る証言員たち。

開館当初28人だった証言員も高齢となり、今では10人ほどとか。

そういえば・・・。

以前に訪れた時に比べて、資料展示の方法が変わったような・・・。

実は、従来は「証言員」の存在を前提にいたため、

展示物の解説がほとんどなかったのですが、

時の経過とともに「証言員」が語れなくなった後も伝えていくためには

きちんとした説明文が必要なのではないかと、

2004年、生存者と若い学芸員が討論を重ねて書き上げた文章を主体にした

全面的な展示リニューアルが行われたのでした。

そうか、だから、今回新たに知ることがいっぱいあったんだ。

館内に立って戦争体験を語り継ぐことができなくなる日が近づいている。

私たちがいなくなっても、

過去から学び、未来に生かそうと思えるような場所にしなければならない。

更に見やすく、学びやすくなった「ひめゆり平和祈念資料館」は

未来を信じ学園で勉学に励んでいたひめゆり学徒たちの

永遠の学び舎なのかもしれません。

「戦争は人間が始めます。

でも、戦争を終わらせることができるのも人間。

私は人間を信じています」。

別れ際、大見さんが最後におっしゃった言葉は、忘れません。

どうか、お体だけはお大切に。

また、この資料館でお会いできたら嬉しいです。

ありがとうございました。

(写真は)

2014年初秋の沖縄本島南部の海。

美しいブルーの海は何にも言わないけれど

69年前に鉄の暴風が迫り、多くの命が失われたこと、

心に刻んで、祈りの地に佇む。