島とパイナップルと水牛と
甘いパイナップルとのどかな水牛車。
八重山の魅力のルーツは
250kmしか離れていない台湾にあった。
「石垣島で台湾を歩く」。
もうひとつの沖縄ガイド本に興味津津の夏。
夏の沖縄旅2016リポート、旅の前半は石垣島ステイ。
西表島・由布島・小浜島・竹富島の八重山4島クルーズや
メインアイランド石垣島1周ドライブなどで、
八重山諸島の豊かな自然、文化、食、人々に出会い、
感動の連続のうちに、あっというまに石垣滞在最終日。
夕方の飛行機で本島へ移動するぎりぎりまで
欲張り旅人は島時間を楽しみ尽くしています。
朝から国の重要文化財「宮良殿内」、公設市場でお買い物、
八重山藍を自家栽培している「島藍農園」を訪ね、
名店「来夏世」で八重山そばランチの後、
小さな隠れ家「ゆうくぬみ」の黒糖きな粉ぜんざいでクールダウン、
レンタカーの返却時間が迫る中、寸暇を惜しんでやってきたのが
どうしても来たかった沖縄県産本のメッカ「山田書店」。
日本最南端の誇り高い本屋さんにもうぞっこん。
旅人にとってパラダイスのような書店で出会った一冊が
「石垣島で台湾を歩く」(沖縄タイムス社刊)。
日本の西南端にある八重山諸島は台湾に最も近く、
石垣島から一番近い台湾の町までの距離はわずか236km、
那覇までの距離が411kmありますから、
石垣島から見ると台湾は本島よりずっと近いご近所さんなんだ。
冒頭の東アジア地図に今更ながら気づかされるのであります。
パラパラと頁をめくると、おおお、実に興味深い。
「台湾」というキーワードで石垣島を見渡すと、
へぇ~、ほぉ~、ふぅ~ん、そうなんだぁ、
石垣島と台湾、こんなに関わりが深かったんだぁ。
たとえば島の特産品、今が旬の甘~いパイナップル、
八重山経済を支える重要な農産物ですが、
このパイナップルこそ、台湾からもたらされたものでした。
パイナップル缶詰生産が盛んだった1930年代の台湾で当時の総督政府が
缶詰会社を一社に統合する政策を進めたため、
困った台湾人実業家がパイナップル生産に適した石垣島に着目、事業を試み、
1935年に「大同拓殖」を設立、37年に台湾から石垣島への移民を募集、
当時としては相当良い条件の給与だったため、300人余りの人が応募、
80haの農場でパイナップル栽培が始まりました。
石垣島のパイナップル産業の創生は台湾発、だったのですねぇ。
また「大同拓殖」発足の直前、台湾の製茶技術者らによって
台湾から石垣島に水牛が持ち込まれました。
これが八重山の水牛の始まり。へぇ~、知らなかったぁ。
由布島や竹富島でおなじみの水牛車のルーツも台湾だったのね。
人より数倍速く土地を開墾できる水牛の移入は画期的。
当時、水牛の威力に不安を感じた島の人と軋轢もありましたが、
貴重な労働力として島に根づいていき、今や海を渡る水牛車は
八重山諸島の原風景、貴重な観光資源になっています。
由布島の水牛ちゃんのご先祖は台湾生まれだったのねぇ。
酸性の赤土と強い日差しに恵まれた石垣島はパイナップル栽培に最適、
順調に生産を続けていた「大同拓殖」ですが、太平洋戦争が始まり、
米や芋などの食糧確保のため、パイナップルの植え付けが制限され、
缶詰工場も軍に接収され、戦争末期には会社は消滅。
事業に関係した台湾人実業家や移民の大部分は台湾へ引揚げましたが、
一部の人々が戦後、石垣島でパイナップル栽培を復活、
60年代にかけて再び多くの台湾人が移住、パインブームを支えました。
その後加工用から生食用へとパイナップル栽培の形も変わりましたが、
かつて大同拓殖の工場があった石垣島嵩田地区には
今でも「大同」という名前のバス停が残されています。
「石垣島で台湾を歩く」の表紙写真にあったバス停は、
島と台湾の深いつながりを今に伝える歴史の証言者だったのですね。
島を訪れてわかること。
島の本を読んでみて初めてわかること。
これだから島の旅、島の本屋めぐりはやめられない。
八重山の原風景につながる台湾との深いご縁。
島とパイナップルと水牛のかなたには
石垣島から一番近いご近所、台湾があった。
おっと、「ちょっき屋」さんのお話の前に
ついつい長く語り過ぎました。
島とパインの関係がわかったところで、
島のおやつ「ちょっき」と台湾の美味しい関係については
明日こそ(笑)詳しくご報告しま~す。
(写真は)
甘い香りの島パイン。
そのルーツは戦前の台湾にあった。
そしてパイナップル栽培が禁止された戦争中、
ある台湾人が必死に山の中に隠した苗が
戦後の石垣島パイン復活につながったそうです。
島パインに歴史あり。

