はじめての沖縄

あの初夏の沖縄。

梅雨明けもまだだった。

猛烈な蒸し暑さも南国の雨もスコールも

亜熱帯のガマもなにもかもがはじめてだったのだ。

若い兵士たちの、はじめての沖縄。

夏の沖縄旅2017、三日目の朝。

先島諸島に接近中の台風3号の影響か、

青空に浮かぶ白い雲の分量がいささか多いような気もしますが、

今のところお天気が大きく崩れる兆しはありません。

ゆっくりのんびりホテルの朝食をとった後、旅の日課、

コーヒーを飲みながら地元紙にじっくり目を通します。

沖縄を知るには地元紙を読むに限ります。

記事も広告も旅人にはすべて関心事。

そうか「宮古島マンゴー初出荷」ねぇ~、

超美味しかったなぁ~、2年前、産地で食べたなぁ、

マンゴー農園のお母さんの笑顔を思い出すなぁ~、

なんて、朝のひととき、まったりしながら、

旅の一日のプランニングを立てるのですが、

今日の予定は心の中でもう決まっていました。

6月23日に行けなかったあの場所。

沖縄の祈りの地を訪れましょう。

平和の願いを心に刻む祈りの場所。

本島南部糸満市にある沖縄県平和祈念公園。

沖縄戦最大の激戦地となった摩文仁の丘の園内には

平和祈念資料館や平和の礎、各県の慰霊塔などがあり、

毎年、沖縄戦終結の日とされる6月23日「慰霊の日」には

沖縄戦全戦没者追悼式が開催されています。

札幌の自宅のテレビ中継画面に向かって黙祷を捧げながら、

今年も必ず訪れようと思っていたのでした。

平和を祈らずに、沖縄を歩けない。

那覇のホテルを出発してレンタカーは南へ。

サトウキビ畑や赤瓦の家が点在する本島南部は

琉球最高の聖地を抱え、沖縄の原風景を残す場所であり、

沖縄戦の歴史を今に伝える大切な祈りの地。

美しい青い海を見下ろす摩文仁の丘が見えてきました。

開園直後の早い時間とあって広い駐車場の車はまばら。

6月23日にはここもびっしり車で埋まっていたのでしうね。

ガジュマルの涼しげな木陰に車を停めて、広い広い公園へ。

美しい緑の芝生、赤瓦と白い外壁が印象的な資料館、

青い海に向かって扇を広げるように立ち並ぶ平和の礎。

夏の朝の摩文仁の丘は泣きたくなるほど平和で静かだった。

1945年3月末、史上まれにみる戦火がこの島々を襲ったのです。

90日間に及ぶ「鉄の暴風」は島の形を変え、

文化遺産のほとんどを破壊し、20数万人の尊い命を奪いました。

日本における唯一の県民を巻き込んだ地上戦、

アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘が行われたが、

今、旅人が立っている、美しく静かなこの地。

その事実を思うと、いつも、足が止まる。

摩文仁の丘を訪れた旅人の足が、止まる。

広い美しい公園、どこから、どう、歩いたらいいのだろう。

「どうぞ、お乗りください、ぐるっとご案内しますよ」。

戸惑う旅人を救うかのように声をかけてくれたのは

園内EVバスの運転手さん。ほっ。

「ありがとうございます」と早速乗り込みます。

40ヘクタールある公園を効率よく見られるように

運行ルート上どこでも乗り降り自由の園内EVバスが

100円ワンコインで1日乗り放題で利用できるのです。

「ここがね、この間23日の慰霊の日の式典があった場所」

「じゃあ、全国の慰霊塔の方へ登っていきましょうねぇ」。

案内ガイドも務めてくれる園内EVバスは見学者の強い味方。

かなりの急こう配の丘の斜面を静かに登っていきます。

緑の芝生の式典広場から各県の慰霊塔がある丘へ。

14万8千余と最も犠牲が多かった沖縄県民とともに

沖縄戦には日本全県からの兵士が戦闘に参加しており、

摩文仁の丘に建立された各県の慰霊塔や慰霊碑は

その犠牲の凄まじさを表しているといえます。

「ここは神奈川県、ここは青森県」と案内されながら

坂道を登っていく途中、黒い服を着た人々が集まる慰霊塔が。

「滋賀県ですね。今日が県の追悼式だったんですね」。

琵琶湖の美しい滋賀県からご遺族や関係者が集い、

夏の青空の下、静かに故郷の戦没者の霊を慰めておられました。

沖縄戦は、戦争は、終わっていない。

失われた命を悲しむ涙は、涸れることはないのだから。

歴史は、今に、つながっている。

「どちらからお越しですか?」「北海道、札幌です」

「北海道の慰霊塔はね摩文仁じゃないんですよ、

ここから近くの米須にありますよ」。

そうでした。北海道出身者の慰霊塔「北霊碑」は

糸満市米須にあるのでした。

「礎にはね、全ての方のお名前が記されていますからね、

北海道の方は一番海側にありますよ」。

悲しい歴史を秘めた青い海に向かって

放射状に円弧を描き扇のように配置された「平和の礎(いしじ))」。

沖縄戦で亡くなった国内外24万余の全ての人々の名前が刻まれています。

メイン通路の左側が沖縄出身者、右側が他府県出身者、

右手奥が外国出身者の刻銘ゾーンとなっています。

沖縄県に関しては数が多いことから市町村別、字別に刻銘され、

名前がわからず〇〇の長女、〇〇の子などと刻まれた文字を見ると

胸がつぶれるような、痛ましい思いにかられます。

北海道の人は、一番海側に刻まれている。

運転手さんにお礼を言ってEVバスを降り、平和の礎へ。

メイン通路を左右両方の刻銘に追悼の意を表しながら歩いていくと、

一番海側、青い海を最前列で眺める場所に「北海道」の文字が。

しかも県名だけではなく「石狩」「十勝」など支庁ごとに

戦没者の名前が刻まれていました。

そう沖縄以外で最も犠牲者が多かったのが、北海道なのです。

1万803人。北海道出身者のお名前をひとつひとつ見つめる。

沖縄戦犠牲者に北海道出身者が多いのは

満州に配備されていた北海道・東北出身者主体の第24師団が

沖縄に送り込まれたからと言われています。

北海道生まれの若者たち、おそらくそのほとんどにとって

はじめての沖縄、だったことでしょう。

沖縄戦が激化していく5月から6月、季節は梅雨、

猛烈な蒸し暑さも、滴る雨も激しいスコールも、

赤い土の泥道も亜熱帯の森のガマ(洞窟)も、

みんなみんな、はじめてだったに違いない。

雪や寒さには強い若者たちにとって

南国の戦場の日々はいかに過酷だったことか。

青く美しい海を目の前に多くの未来ある命が失われたことを思うと、

息子を持つ母親の一人としてどうにも切なく、たまらなくなる。

沖縄から一番遠い北海道の若者たちの名前が

一番海に近い場所に刻まれている。

はじめての沖縄が、戦場だった。

これが、歴史だ。

極寒の地に生まれ育ち、

沖縄で命を落とした兵士たちを追悼しようと

1954年、北海道の慰霊碑である「北霊碑」が

全国に先駆けて建立されたそうです。

一番北と一番南の縁(えにし)。

平和の礎の前に広がる平和の広場からは

断崖絶壁から海岸線、波打ち際を眺望できます。

その広場の中央に灯されているのが「平和の火」。

青い海に向かって平和を祈り続けるこの火にも

忘れてはいけない縁(えにし)がありました。

そのお話はまた明日。

(写真は)

黒い御影石に刻まれた「北海道」

見慣れた北海道の地名。

沖縄戦をさらに身近に感じる場所。

平和の礎には今年新たに54人が追加刻銘。

24万1468人のお名前が

青い海を見つめています。