記憶の糸

明日午前2時に合わせて調整中。
サッカーW杯決勝トーナメント日本―ブラジル戦まで24時間を切った朝。
早朝の札幌の空は曇り空。
明日はサムライブルー晴れになる!


朝刊各紙のスポーツ面は明日の先発予想メンバーや警戒ポイント、勝機のカギなどが満載。
明日のブラジル戦に向けて、わくわくとドキドキが止まらない朝ですが、
北海道新聞の「言葉の現在地2026」の特集記事にページをめくる手が止まりました。
「-今も子どもたちが悲鳴を上げているー対馬丸事件が伝える教訓」。

1944年(昭和19年)8月21日、沖縄から九州へ疎開する学童など1788人が乗った対馬丸が那覇港を出港、
翌22日夜、鹿児島県の悪石島沖で米潜水艦の魚雷を受けて沈没、
漁船などに救助されたり、漂着した生存者を除く1484人が犠牲になったとされる対馬丸事件。
犠牲者の7割の1040人は0~15歳の子どもたち、学童疎開834人中、94%の784人が犠牲になったとされます。

しかし、那覇市にある「対馬丸記念館」はこうした記録は「正確ではない」と説明します。
戦中の事件は秘密扱いされ、戦後も27年間、米施政下に置かれた沖縄では正確な調査ができなかったためだ。
沖縄旅で訪れた「対馬丸記念館」には370枚の遺影が並んでいました。姉妹や家族で写る写真もあり、
遺影は合わせて418人分になりますが、それでも犠牲者の4分の1に過ぎません。

「真っ白な雪や大きな汽車、真っ白なごはんにあこがれ、まるで修学旅行にでも行くように船にのった私たちは
アメリカの潜水艦の攻撃を受けて沈められました」
対馬丸記念館の展示室にある詩「対馬丸の子どもたちからあなたへ」の冒頭の一節です。
そして、詩は続きます。
「おいしいものを食べたり、思い切り遊んだり、大人になって世の中で自分の力を試したり、すてきな相手に巡り合ったり
わたしたちは 生きたかった」 

「なぜ、それが許されなかったのでしょう なぜ ああ、でも海の底にいるとよく聞こえるのです
今も世界中のあちこちで子どもたちが悲鳴をあげています なぜ なぜ なぜ」
対馬丸記念館の418人のまなざしがよみがえります。
写真すらない犠牲者の人々の声が聞こえてきます。
なぜ、今も、戦争はなくならないの。

美輪明宏さんが亡くなりました。
反戦、平和、愛を訴え続けた美輪さんが長崎での被爆体験を語る映像を見ました。
その日、夏休みの宿題の絵を描き終わり、出来栄えをみようと後ろに下がった瞬間に
ピカッ!「100万個のマグネシウムが爆発したような閃光」の後、「世界から音がなくなったようにシーン」とした。
次の瞬間「世界中の音をぜんぶ集めたような物凄い音」がしたと。

対馬丸事件も広島、長崎の原爆も、戦争を体験した人の言葉を聞く機会はどんどん少なくなっている。
原爆が炸裂する瞬間の光、音を「記憶」として語ってくれる人がどんどんいなくなる。
「100万個のマグネシウム」「世界中の音がなくなった」「世界中の音を集めた」
体験した人の「記憶」の糸を受け継ぎ、「記録」し、その糸で「平和」を織り直していかねばならない。

糸を織るたびに間違っていると思ったら直さないときれいに仕上がらない。
悲劇を伝えるだけでなく「今、直さないと平和に向かわない。戦争を止められてないと思うのです」
特集記事の中、母が対馬丸事件の生存者であるという平良次子記念館館長の言葉が強く心に残りました。
記憶の糸で平和を織る。戦後生まれに託された大切な仕事だと思いました。


紫陽花が咲いた。
海の底の子どもたちに見せてあげたかった。