うりずん沖縄旅④~健児之塔
我が家的開花宣言♪
昨日4月16日、マンション駐車場の一本桜が咲きました。
一つ、二つ、三つ四つ・・・もっと咲いています。
春の青空に桜色が映えますね。

すぐそばの遊歩道の梅も開花♪
桜と梅の同時開花、なんだかめっちゃめでたい気分。

桜はぱっと華やいた笑顔のように花が咲き、
梅は少しはじらうかのようにほころんでいます。
桜の風情、梅の趣、どちらもいとをかし。
札幌も春本番を迎えました。
さて「うりずん沖縄旅」リポート、本日はその④。
一年で一番過ごしやすい季節「うりずん」の沖縄へ2泊3日のショートトリップ、
最高気温27度、湿度も少し高めといつもの年よりは季節が2週間早めの沖縄を旅しました。
1日目は宜野湾市の加藤食堂で美食を満喫、2日目の朝は那覇のオハコルテで最高の朝食をいただき、
まずはこの秋に復元工事が完成する首里城へ。
午前9時半にはもう首里城公園の駐車場は満車、近くの民間駐車場にレンタカーを停めて、
高台にある首里城をめざして坂道をのぼった先に・・・おお~美しい!
外観が完成した正殿に美しい姿を見ることができましt。
創建当時の天然顔料が名護の小さな川で発見され、以前の華やかな赤よりも
落ち着いて深みのある赤がとても印象的でした。
秋の完成を楽しみに首里城の坂道を下り、駐車場へと向かいました。
琉球王国時代の面影を残す「首里金城町石畳道」がある界隈は
琉球石灰岩を組み合わせた石塀に沿って赤瓦のお屋敷などが立ち並ぶ静かなエリア、
かつての城下町の風情を感じることができます。
この小さな坂道をお城に上がる王府のお役人さんたちが行きかっていたのだろうなぁ・・・
と、静かな首里の住宅街を眺めていると、ふと、小さな表示が目に留まりました。
「一中健児之塔 一中学徒隊資料展示室 養秀文庫 →」
矢印は坂道を下った方向を示しています。
「一中健児之塔」は沖縄戦に学徒兵としてかりだされ亡くなった県立第一中学校、
(現在の県立首里高校)の生徒を弔った塔で、沖縄戦を知る史跡です。
沖縄戦には一中、師範学校、第一高女などから男女学徒が戦争にかりだされました。
男子上級生は「鉄血勤皇隊」下級生は「通信隊」、女子生徒はひめゆり学徒などの看護隊に派遣され従軍、
多くの学徒が沖縄戦の犠牲になった史実は知っていましたが、「一中健児之塔」を訪れたことがありませんでした。
駐車場を後に静かな坂道を下りていきます。
時折、南国の鳥が高らかにさえずり、山鳩ののどかな鳴き声が聞こえる以外はしんと静かな首里の住宅街。
あ・・・ここです。

首里の丘に静かに佇む史跡。


沖縄戦で犠牲になった学徒を弔うために1950年に建立された「一中健児之塔」。
第二次世界大戦終盤の1945年3月27日、米軍爆撃下のこの地で一中の異例で悲壮な卒業式が行われました。
5年生と4年生が同時に卒業、ただちに3年生と共に「鉄血勤皇隊」編成され、第五砲兵司令部に配属され、
2年生は少年特別志願兵として通信隊に配属されたのです。
鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵たちは郷土防衛のために
陣地構築、通信、伝令、弾薬糧食の運搬、戦傷兵の輸送などの任務に精魂を傾け、
熾烈な砲撃、爆撃下に対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加、学徒、志願兵との呼称でありながら、
終始日本軍の一員として激烈な任務を遂行したのでした。

塔の横には「一中健児之塔刻銘碑」がありました。
非戦闘員であるべき学業半ばの若く尊い200名以上の命が沖縄戦で奪われたのです。
一中の校章である「桜」の下、黒御影石に刻まれた名前。
そのひとつひとつに希望、未来があったはずなのに・・・。
学生帽をかぶり足を組んで静かに佇む学生の像、そのまなざしは何を見ているのだろう。

塔の裏側には「沖縄県立第一中学校鉄血勤皇隊壕跡」がありました。
壕は生徒たちの手によって琉球石灰岩の地層を掘られたものです。
自然洞窟や岩穴を結んだ迷路のような暗い壕が彼らの最後の校舎になったかと思うとやりきれません。
学ぶために、友と未来を語るために一中に入学したはずなのに。
観光客で賑わう首里城にはかつては日本軍の司令部がありました。
そこからそう離れていないこの場所を訪れる人は一人もいません。
沖縄を歩く。歴史を知る。感じる。過去から何を学ぶのか。
静かな「一中健児之塔」に手を合わせます。

塔の横に刻まれた言葉を胸に
首里の坂道をまたのぼっていくのでした。


