登るやちむん
緑豊かな
斜面に沿って
南国の蒼い空を
めざして
登るやちむん
しんしんと音もなく雪が降り積もります。
強い寒気の影響で北陸でも雪が降り被災地でも積雪が予想されます。
24時間降雪量は山沿いでは30cm、平地でも20cm前後とか。
「あの雪に家屋が絶えられるのだろうか・・・」
湿った重い雪を知る新潟出身の夫が呟く朝でした。
阪神淡路大震災から29年となる1月17日に神戸で開かれる追悼のつどいでは
能登半島地震で被災した人たちと「ともに助けあおう」という思いをこめて
灯籠が「ともに」という文字の形に並べられることになったそうです。
ひとりじゃないよ。ともに寄り添い続けるよ。
6434人が亡くなった震災の街からのメッセージです。
今朝、大学入学共通テストの会場に向かった受験生の中には
被災し、勉強もままならなかった受験生もいます。
どうか、未来のために、これまでの努力を信じて、
精一杯自分の力を出しきってほしいと願っています。
受験生みんなを心から応援してます。
冬の沖縄旅では幾多の苦難を乗りこえてきたエネルギーを体感しました。
令和の大火災からの復元工事が着々と進む様子を間近に目撃し、
古都首里で王朝の伝統を継承する琉球菓子や琉球漆器の老舗を訪ね、
北谷町の浜屋そばで沖縄そばランチ、北中城村の和菓子専門店で
沖縄ではレアなあんこで極上甘味タイムを満喫した後は
大好きな沖縄の焼き物「やちむん」の陶房へ。
緑豊かな読谷村にある海を望む「陶器工房 壹」に何度目かの訪問。
沖縄陶芸界の巨匠大嶺實清氏に師事、
沖縄の古陶に魅せられ、作陶を続ける気鋭の陶芸家壱岐幸二さんの陶房で
「奇跡の国」のこころをかたちに昇華させた作品に魅せられました。
万物の魂が宿るニライカナイがあるという蒼い海を望む陶房に別れを告げ、
レンタカーはやちむんの聖地の中心もある「やちむんの里」へ。
琉球王国が各地に散らばった窯元を那覇の壺屋に集めて作陶を奨励したことで
やちむんの歴史が確立しますが、1970年代以降、薪を燃やす登り窯の煙が
公害問題となり、1972年にのちに沖縄県内初の人間国宝となる金城次郎氏が
文化村構想を進めていた自然豊かな読谷村へ移住したことをきっかけに、
数々の窯元が移住し、今では19の陶房が集まる観光資源ともなっているのです。
緑濃い山あいの道をレンタカーでくねくね上っていくと、
冬の蒼い空に映える赤瓦の建物群が見えてきました。「やちむんの里」です。
沖縄旅では必ず訪れる場所、もう数えきれないほどやってきました。
厚みのある素朴でおおらかな器から繊細で芸術的なアート作品まで
個性的な陶房が醸し出す幅広い作風も魅力で何度もリピートしています。
4人の陶芸家の共同窯である「北窯」や
「壹」の壱岐幸二さんの師匠大嶺實清氏の陶房もここにあります。
「やちむんの里」の中の細い道を散策しながらお目当ての陶房を回るのは
やちむん好きにとっては至福の時間です。
そして、必ず、ご挨拶をする場所があります。
それは赤瓦を戴いた壮大な登り窯
都市化が進む壺屋では継続が難しくなった伝統的な登り窯が
ここ読谷村のやちむんの里では今も赤々とした炎が息づいているのです。
登り窯とは斜面を利用し楕円形の焼成室(房)が連なる形になった伝統的な窯。
年に4回、一番下にある大口(窯口・焚口)に薪で火入れすると
房が連なる狭間(さま)と炎の通り道でつながり、
最高温度が1270度で4日間かけて器を焼き上げていきます。
共同の登り窯で複数の陶房が力を合わせて4日間寝ずの番をして炎を見守ります。
ガスも電気も使わず、薪と人の力だけで焼き上げる登り窯、
大きな利点のひとつが、一度にたくさんの器を焼き上げられること。
それは、沖縄の歴史とも深く関わっています。
王府への献上品や泡盛や交易品のの容器として始まった「やちむん」は
やがて食器や手記として庶民の生活にも広く浸透しましたが、
沖縄は太平洋戦争の戦火によって焼け野原となり人々の日常は失われ、
茶碗(マカイ)や皿など日々の暮らしの器もなくなってしまいました。
幸い、壺屋地域の戦争被害は軽かったために、戦後すぐに活動が再開され、
まずは人々の暮らしに必要な日常の食器を大量に焼き続けました。
焼成前の器を何個も重ねて一度にたくさんの器を焼ける登り窯は
沖縄の戦後復興を支えた大切な存在だったのです。
沖縄の本土復帰と時を同じくして壺屋の登り窯は閉じられ、
この読谷村に二つの共同登り窯が設営され、今に至ります。
冬の青空を目指すがごとく天に向かって昇る赤瓦の登り窯は
幾多の苦難を乗り越えてきた沖縄のたくましさを象徴するかのようで、
その勇壮な姿は、未来へ飛翔する龍のようでもありました。
登るやちむん。
沖縄の器には
人肌の温もりと
炎の情熱が宿る。
(写真は)
冬の読谷村
青空に向かって
勇壮に佇む登り窯


