久米スピリット
那覇の朝散歩。
ぷらり歩きで出会った
琉球と中国の5百年。
歴史を支えた久米スピリットに
静かに思いを馳せるうりずんの朝。
穏やかな春の沖縄。
うりずん沖縄プチ旅2日目の朝。
朝食後、ぷらりぷらぷら気の向くまま散歩におでかけ、
優しい青空と爽やかな空気に誘われ通りかかったのが、
港近くの静かな住宅街、那覇市久米。
そこは以前から探訪したかった旧久米村(くにんだ)でした。
五百年に及ぶ琉球と中国の関係を支えた人々、
久米三十六姓が暮らしたコミュニティーであります。
その昔、琉球王国時代に中国からからやってきて王府で活躍した
実力者人材集団は「久米三十六姓」と呼ばれました。
彼らの高い技術力、語学力、外交力、海外情報収集力、芸術性が
琉球の大交易時代を築く原動力になっていったのでした。
久米村(くにんだ)が琉球の繁栄を支えたといっても過言でない程、
鄭氏、林氏、梁氏、蔡氏、魏氏など中国の姓を持つ彼らは
琉球の歴史を語るにあたって欠かせない存在なのであります。
しかし、ここで、大きな謎が浮かび上がります。
現在の那覇市久米は美しく掃き清められた落ち着いた住宅街。
真っ赤な提灯や派手な漢字の看板、龍の装飾などなど、
街並みのどこにも中国風の異国情緒を感じさせるものはありません。
中国との関わりにおいては横浜中華街や神戸南京町、長崎新地中華街より、
はるかに古く14世紀から中国の人々が暮らしていた久米村なのに
なぜ中国料理店が立ち並ぶチャイナタウンにならなかったのか。
この謎に関する答えが那覇空港の書店で見つけた雑誌、
JTAの機内誌「コーラルウェイ」の最新号に載っていました。
それは、久米村の人々は商人ではなく、琉球王府に仕える役人だったから。
なるほど、外交、通商、芸術、文化行政に通暁した
プロフェッショナル集団が暮らす官舎エリアだったことね。
叉焼も北京ダックも肉まんを蒸かす湯気もないのも納得。
だがしかし、琉球王国がなくなった現在も
久米三十六姓の末裔たちは強靭なネットワークを作っていて、
彼らで構成される久米崇聖会が美しい孔子廟「久米至聖廟」、
「天妃廟」「天尊廟」などを維持、管理、祭祀を取り仕切り、
孔子廟に隣接する当時の学校「明倫堂」では
今でも論語や漢詩などの勉強会を行っているのだそうです。
孔子廟などが立ち並ぶエリアはきれいな公園の一部になっていて、
新しく移設された中国風の建物の脇に
歴史を感じさせる石段がひっそり残っていたりします。
亜熱帯の緑が生い茂る散歩道を辿っていくと、
ぽつん、ぽつんと久米村の有名人の紹介パネルが点在。
当時の面影を偲ばせるイラストが印象的です。
久米村から初めて三司官(行政の最高責任者)に任命され、
薩摩が琉球に攻めてきたときに久米村に立てこもって戦い、
服従を強いる誓約書への署名を拒み処刑された鄭同、
琉球王国解体に瀕し仲間とともに中国人に変装して北京入り、
王国の救済を訴え、翌年、抗議の自決をした林世功。
久米村の人々の歴史、高潔で強靭な久米スピリットを
亜熱帯の緑に囲まれた小さなパネルが教えてくれるのでした。
沖縄のガイドブックは数あれど、
久米三十六姓の歴史にまで触れたものはそう多くありません。
旅に出たら、気ままに散歩すべし。
うりずんの春風に導かれてたどり着いた久米村。
守り神のシーサーも沖縄の道でよく見かける魔除け「石敢當」」も
みんなみんな、くにんだの人々が中国から伝えた贈り物。
4月に行われる清明祭(シーミー)では
鶏をまるごと、豚はかたまりで、魚一匹丸ごと供える、
久米村独特の供え物(ウサンミ)を墓前に供え、
久米三十六姓の子孫たちが遠い祖先を偲ぶのだそうです。
海を渡り琉球に繁栄をもたらした人材集団、久米村。
那覇の街めぐり、まちまーいは、
やっぱり、最高に、面白い。
(写真は)
プロフェショナル集団だった久米三十六姓。
魏士哲は琉球で初めて
麻酔を用いる外科手術を行った人物。
後の国王尚益の手術、治療を行ったとか。
琉球王国時代のドクターX、か。

