ウクヮーシ遺産
手から手へ。
激動の時代を超えて
受け継がれていく甘い記憶。
未来へ伝えたい。
沖縄のウクヮーシ。
朝刊に沖縄で出版された1冊の本が紹介されていました。
「琉球菓子」(沖縄タイムス社)。
著者は琉球料理研究家の安次富順子さん。
琉球王朝菓子や庶民のお菓子など計51点の
作り方や特徴、由来などをまとめた一冊です。
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沖縄の「ウクヮーシ(お菓子)」は
中国や日本、ポルトガルなどの影響を受け、
色鮮やかで形も種類もバラエティーに富んでいましたが、
作り方を記した文献がないため、
安次富さんが材料や分量などのわかっている限られた情報から
試作を重ね、再現し、1冊の本にまとめたのだそうです。
安次富さんが琉球菓子を研究するきっかけになったのは
同じ琉球料理研究家だった母の料理学校で出会った
琉球王朝の包丁人、新垣淑規さんの子孫で
新垣菓子店の創業者である新垣淑扶さんから
直接「花ぼうる」など王朝菓子8品の作り方を教わったこと。
王朝菓子は材料が同じでも形や色で違うお菓子になるものも多く、
文献だけでは決してわからない、
手から手へ伝える重要性を感じたのでした。
しかし、琉球菓子の研究はほぼ推理のように難しい。
ようやく8つの文献から161のお菓子の名前がわかりましたが、
たった一つの文献に材料は記されていたものの、作り方は皆無。
材料や分量から蒸し菓子か、焼き菓子か推測して試作、
琉球王朝の城下町である首里のお年寄りに食べてもらったりしながら
試行錯誤の上、再現された貴重なお菓子たち。
まさにウクヮーシ遺産、であります。
沖縄土産の定番「チンスコウ」などは
今も食べられている王朝菓子ですが、
文献に名前が記録されているだけで食べたことのある人もいない
「芋粉餅」など幻のお菓子もあるそうです。
琉球王朝時代、中国からの使者「冊封使」の歓待の宴を彩った
色彩鮮やかな王朝菓子の記憶をとどめなければ。
「記録を残しなさい」と言っていた淑扶さんの言葉を大切に
安次富さんが未来へ伝える甘い記憶。
琉球王朝崩壊後、多くの貴重な琉球文化資料が失われました。
大正末期から昭和の初期にかけて大々的な琉球芸術の調査を行い、
貴重かつ膨大な資料を残した研究者、鎌倉芳太郎の評伝、
「首里城への坂道」(与那原恵 著)を読んでいる途中なのですが、
その中でも琉球処分以降、紅型を伝える宗家の窮乏ぶりが書かれていました。
王朝がなくなり、士族は没落、紅型の注文は皆無となり、生活は困窮し、
代々伝えられてきた様々な技法を記した厚さ6cmほどの分厚い資料の一部が
鎌倉が訪ねた時には障子紙に使われていたというのです。
琉球文化に敬意を払い、こうした宗家を訪ね歩いた熱心な鎌倉に
貴重な紅型の型紙や裂地千数百点が託されたことにより、
琉球王国の高い芸術、文化、祭祀、交易史、文化交流を物語る美しい布、
紅型の研究資料は沖縄戦の戦禍に巻き込まれることなく、
東京で大切に保管されることになるのでした。
この豊かで美しい文化を伝えなくてはならない。
そうした熱い志が現代の沖縄文化へつながっていくのですね。
鎌倉芳太郎と安次富さんには共通点があります。
それは「言葉」への敬意。
琉球芸術の調査研究で家々を訪ねる際、
鎌倉は縁あって下宿した首里の旧家で覚えた「首里言葉」を使い、
ふだんは標準語の安次富さんも聞き取りは「しまくとぅば」で。
その結果、漢字しか記載がなかった「大巻餅」が
昔から首里に住む人への聞き取りから
「ウーマチモチ」という呼び名であることが明らかになったそうです。
文化を伝える「言葉」への敬意と熱意のたまものでしょう。
安次富さんは琉球菓子の名前、材料、作り方だけではなく、
お菓子にまつわる「しまくとぅば」も大切にしていきたいそうです。
たとえば「薄味」は「アファブッカー」、
「クーベーサン」は「味わいがある」などなど。
琉球文化の甘い記憶にまつわる美しい言葉。
未来に残したいウクヮーシ遺産よ。
(写真は)
王朝菓子のひとつ。
新垣菓子店の「チイルンコウ」。
卵をたっぷり使った蒸しカステラ。
赤く染めた落花生が美しい。
中国との交流を偲ばせるお菓子。



