あの日の混ぜごはん

そうか。

あのお弁当箱の中身は

混ぜご飯だったのか。

一口も食べることなく逝った子を

不憫に思う母の心よ。

「母の弁当を抱いて焼かれた中学生の最後に思いを馳せてほしい」。

オバマ大統領の広島訪問について今朝の天声人語は

平和記念資料館にある「黒こげの弁当箱」に触れ、

71年前の地上の惨状をしっかり見てほしいと結んでいました。

数ある遺品のなか、あのひしゃげた弁当箱と水筒を目にした時、

しばらく、そこから動けなくなったっことを思い出します。

「滋くんの弁当箱」。

爆心地から600mの地点で発見された弁当箱。

原爆の熱線と爆風で大きくひしゃげ、中は真っ黒に炭化しています。

この弁当箱を胸に抱いたまま亡くなったのが

当時13歳、広島ニ中の1年生だった折免滋君です。

「黒こげの弁当箱」のことは知ってはいたのですが、

実物を目にし、その持ち主の名前を知り、顔写真を見たとき、

どうしようもない感情がせりあがってきて動けなくなりました。

私が、あの朝、この弁当を作った母だったとしたら・・・。

資料館の説明文によると

建物疎開の作業現場に行く滋くんのために母親のシゲコさんは

畑で収穫した作物でおかずを持たせたそうです。

出征中の父や兄に代わって自分が開墾した畑で

初めて収穫された野菜が入ったお弁当を喜んで持って行った滋くん。

「シゲコさんはそれを食べることなく死んでしまった滋くんが

不憫でなりませんでした」と綴られていました。

食べられることなく黒こげになったお弁当。

母親にとってこれほどむごいことがあるだろうか。

戦時中の厳しい食料事情のさなかにあっても

母親たちは我が子のために乏しい食材を工夫して

心尽くしの弁当をこしらえていたことでしょう。

8月6日の朝の滋くんのお母さんも同じだったはず。

その日のおかずは資料館の説明文から、

畑の野菜で作った煮物など詰めてあげたのかと思っていましたが、

今朝の天声人語によると「混ぜご飯」だったのですね。

13歳の息子が開墾した畑で獲れた野菜。

大根の葉と人参でも刻んでお醤油味で炊いたのだろうか。

まだ温もりの残る弁当箱を胸に抱いて、

晴れた夏の日の朝、建物疎開の作業現場に向かった息子は

一口もその弁当を食べることはなかった。

真っ黒に焦げた弁当箱には持ち主がいて、名前があって、

愛情あふれる手作り弁当を持たせた母がいて、

炭化してしまった塊は野菜たっぷりの「混ぜごはん」だった。

「被爆者」とひとかたまりの言葉でくくらないでほしい。

一人一人に名前があり、家族があり、人生があり、未来があった。

13歳の少年が胸に抱いていた弁当。

その黒い塊がピーナツバターとジャムのサンドイッチだったとしたら。

大統領の想像力を信じたいと思います。

我が子の弁当が黒こげになる世界など二度といらない。

母とは、子に食べさせるために生きているのだから。

(写真は)

帰省した息子が遠くに戻る朝。

好物のオムレツを焼き、グラタンを添える。

子にお腹いっぱい食べさせたい。

母親の本能。

いつの時代もどの国も同じだ。