いつの世までも藍

2016/07/24

いつ(五)の世(四)までも。

島を愛する心は祖母から孫へと

カタチを変えて受け継がれていた。

伝統の織りと藍を復活させたのは

未来へつながる島愛。

夏の沖縄旅2016リポート、旅の前半は石垣島にステイ。

西表島・由布島・小浜島・竹富島と八重山4島クルーズの翌日、

三日目はメインアイランド石垣島を1周するドライブ。

八重山伝統のミンサー織りや島の手仕事に触れ、

世界的に貴重なサンゴ礁を有する白保海岸を散策、

ミシュラン三つ星の絶景、川平湾で海中散歩などを楽しみ、

八重山そばに楽園パーラーの南国スイーツを堪能、

早めの夕食にはマグロ専門居酒屋で絶品島魚をいただき、

島一番の繁華街ユーグレナモールにあるお目当てショップにやってきました。

お店の名前は「shimaai」。

深い藍と青と橙色。

島で生まれた原料で、島の自然を表した美しい石垣トリコロール。

希少な八重山藍が都会的なデザインに昇華されたバッグたち、

一度目にした瞬間、恋に落ちちゃいました。

魅かれたのは美しいビジュアルだけではありません。

島で一度消えかけていたナンバンコマツナギによる藍染めを復活させ、

畑作りから栽培、収穫、発酵、染色、デザイン、縫製、販売まで一貫して担い、

自家農園で無農薬栽培を貫くスローで真面目で美しい作品なのであります。

サンゴ礁の島で実践されていたのは新しい形の6次産業でした。

ここ「shimaai」は2年前にできた「島藍農園」のアンテナショップ。

車で10分ほど離れた海の見える高台に1000坪の農園があり、

染色家でありデザイナー、オーナーの大濱豪さんは

早朝から午前中は藍畑で畑仕事と染色作業に精を出し、

午後から市街地のショップ兼工房で製作と販売を手掛ける毎日。

額に汗して島の伝統を未来につなぐ姿は作品同様に魅力的だ。

それにしても島で消えつつあったナンバンコマツナギの藍染め

方法を覚えている人もいない、そもそも苗さえ失われている。

最初の一歩はどうしたのでしょうか。

「ああ、それはですね、

僕のばあさんが取ってあったわずかな種を植えたんですよ」。

へ?おばあさん?「ええ、ミンサー織をしているんですけどね」。

「え~、朝、みんさー工芸館行ってきましたよ~」。

「ええ、僕のばあさん、そのみんさー工芸館作った人なんですよ」。

大濱さん、さらりと凄いことを仰る。あのミンサー織復活の拠点作った人?

「え、ええ、新絹枝って言うんですけどね」。

新絹枝さんって・・・。

そうです。先日のブログでもちらりと触れましたが、

戦後、途絶えかけていた八重山伝統のミンサー織を独自に工夫、研究、

多色染めや斬新な意匠などを取り入れ、復活普及させ、

現代の名工にも選ばれた新絹枝さんのお孫さんなのでありました。

島の伝統織物を復活させた女性のフロンティアDNAは

島の伝統藍をリデザインさせた彼に引き継がれていたのです。

話を聞けば、これがまた、ほぼ情熱大陸、カンブリア宮殿モノ。

大正15年生まれ、竹富島出身の新絹枝さん、

幼い頃の竹富島は着るものは自分たちで織り、織物は暮らしの一部。

昭和22年に結婚して石垣島へ。

嫁ぎ先の義母がまた織物の名手でその手ほどきを受けました。

しかし終戦後、機織りをする人はどんどん減少、織物組合はなくなる。

島から伝統の織物が消えてしまう危機感を覚えた絹枝さん、

そこからの行動力が凄かった。

昭和29年、まだ幼い二人の娘を夫に託し、単身上京、

東京の洋裁学校に半年間留学。服飾技術やデザインを学び、

今でいうところの単身赴任妻は、島に戻り、洋裁店を開きます。

その頃、義母に見せられた一本のミンサー帯に強烈に魅せられますが、

単色の帯では店に置いても売れない、着物を着る人も減ってくる。

そこで学んできた服飾や色彩センスを活かし、

色鮮やかなミンサー織りに挑戦、バッグや財布などにして商品化、

織物を復活させて、八重山経済に貢献しようと、織りに賭けたのです。

途絶えかけていた伝統技術と知識を習得させるため、講習生を募集、

島の女性たちに仕事の場を提供、手仕事の素晴らしさを伝えてきました。

その集大成のひとつがみんさー工芸館だったわけです。

何とまあ、事実は小説よりもドラマティック。

戦後まもない生活するのも大変な時代、、主婦が幼子を夫に預け、

復帰前の沖縄からパスポートを携えて上京、必至に学び、帰島。

消えつつあった伝統工芸を復興させるべく、独自に研究、

小さな洋裁店から起業し、今や島の基幹産業のひとつに育て上げた。

いやはや、朝の連ドラになってもおかしくない。なんて素敵な波乱万丈物語。

石垣島版とと姉ちゃん、というか、とと母ちゃん?ととばあちゃん?

大濱さん、凄いおばあちゃんですねぇ~、

そしてそんな妻を送りだした夫、おじいちゃんも、凄かった。カッコいい。

その新絹枝さんが、

いつか島の藍をもう一度と大切に保管していたのが、

ほんのわずかなナンバンコマツナギの種でした。

19歳で京都で染織を学び、20代後半に旅したインドで手仕事の魅力に触れ、

島で暮らし、島で創作する人生を選んだ青年に

祖母が託した数粒の小さな種。

フクギやクール(紅露)など八重山の恵みを使った染めに没頭していた彼を

藍色の道へと誘う運命の種だったのです。

同時に、祖母の絹枝さんから見せられた一本のミンサー帯。

「いつ(五)の世(四)までも」の思いが織り込まれた藍染めの帯に

彼もまたかつての祖母と同じように魅了されますが、

多色織りを展開した祖母とはまた違う決意を固める。

「とことん、島の藍にこだわりたい」。

古来の形式にとらわれることなく伝統織りを色鮮やかに発展させた祖母。

一方、藍一色をとことん深堀りすることで島を支えようとする孫息子。

同じ原点から世代を超えて二つの魂は自由に飛翔した。

「shimaai」島藍農園のHPにもパンフにもプロフィールにも

大濱さんと祖母である新絹枝さんのつながりは触れられていません。

こうして語らっているうちにたまたまその原点、経緯を知りましたが、

あえて声高にルーツを語ることもない自然なスタンスが実に清々しい。

島の手仕事に彩りを加えて復興させた祖母と

島藍一色に汗水流し、現代デザインに昇華させる孫息子。

美しい手仕事には情熱遺伝子が織り込まれていた。

誰かにそっと耳打ちしたい。

ちょっと、いや、かなり素敵な南国手仕事物語。

ドラマ化、まじでありだと思うよ。

ほんと。

(写真は)

島の風に揺れる藍色の布。

翌日、訪れた島藍農園のひとコマ。

亜熱帯の緑を吹き抜ける風が

海の藍色に染まっていく。

美しい手仕事の現場だ。

藍が生まれる工程にもいちいち感動。

後日詳しく紹介しますね。


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